「それで、残るか?」
ほぼ日の奥野さんのコラムを読んでいて、この言葉がしばらく頭に残った。
というよりも、突きつけられたように感じた。
そこでは『古今和歌集』の写本である「元永本」について書かれていた。水に濡れればふやけ、虫に食われ、火がつけば燃えてしまう紙の束が、1100年以上ものあいだ残されてきたそうだ。
丈夫だったから残ったわけではない。
その時代、その時代に、それを手にした誰かが「これは残しておこう」と思い、大切に扱い、次の時代へ渡してきたから残った。
そして、書かれた当時に読んだ人の数がたとえ数百人程度だったとしても、長い時間を経ることで、それは何百万人という人の目に触れる可能性がある。
いま何人に届くかではなく、それがどれくらい長く残るか。
生成AIによって、人間が消費しきれないほどの文章や音楽や画像が生み出されるようになった現在では、この時間の捉え方はますます重要になるのかもしれない。
そんなことを考えていて、ひとつメモを残した。
その時代に生きた人々の言葉を拾う。
拾い集める。
この文章は、そのメモをもとにChatGPTと対話しながら、考えを発展させたものになる。
後世に残るものというと、どうしても偉大な作品を想像してしまう。
けれど、文学の歴史を振り返ってみると、残っているのは必ずしも著名な作家の作品だけではない。
たとえば『万葉集』には、柿本人麻呂や大伴家持のような名前の知られた歌人だけでなく、作者の分からない歌が数多く収められている。
東国で歌われた東歌や、遠くの土地へ赴く防人たちの歌もある。
そこに残っているのは、防人という制度そのものだけではない。
故郷を離れるときに何を思ったのか。
残していく妻や母をどう思ったのか。
そのとき、どんな言葉が口から出たのか。
歴史の大きな流れからこぼれ落ちてしまう、一人の人間の感情が残っている。
『古今和歌集』にも「よみ人しらず」の歌がある。
誰が詠んだのかは、もう分からない。
けれど、歌は残った。
誰が言ったかは消えた。
何を言ったかは残った。
そう考えると、「残る」ということの意味が少し変わって見えてくる。
ChatGPTとの対話の中で知ったものに、平安末期の『梁塵秘抄』がある。
後白河法皇が、当時流行していた「今様」を集めた歌謡集である。
「今様」という名前そのものがいい。
文字どおり、その時代の「いまどきの歌」だった。
当時の人々にとっては、どこかで誰かが歌っている流行歌だったのかもしれない。それを誰かが拾い、文字にした。
その結果、800年以上経ったいまでも、僕たちはそこに当時の人々の声を聞くことができる。
室町時代の『閑吟集』というものにも、小歌や民謡、宴席で歌われた歌が集められているようだ。
恋をしたこと。
別れたこと。
酒を飲んだこと。
誰かを待ったこと。
人生が思うようにならなかったこと。
歴史書にはなかなか記録されないような、小さな感情がそこには残っている。
こうしたものについて考えるとき、文学とは必ずしも「作品をつくること」だけではないのではないかと思えてくる。
その時代の空気の中に漂っている言葉を拾うこと。
誰かが何気なく口にした言葉を残すこと。
やがて消えてしまう歌や語りや感情を、記録しておくこと。
それもまた、「残す」ということなのではないだろうか。
未来に残るものをつくろうとすると、僕たちはつい「いつの時代にも通用する普遍的なもの」をつくろうとしてしまう。
けれど、逆なのかもしれない。
その時代にしか存在しないものほど、時間が経ったときに価値を持つ。
『梁塵秘抄』に収められた「今様」は、その象徴のように思える。
そのときには「いまどき」だったものが、800年後には、その時代へ触れるための入口になっている。
だとすれば、僕たちがいま残しておくべきものも、案外そういうものなのかもしれない。
2020年代に人々がどんな言葉を使っていたのか。
街を歩きながら何を見ていたのか。
どんな音楽を聴き、どんな会話をして、どんなことを「あたりまえ」だと思っていたのか。
いまならそれは、日記かもしれないし、街の会話の断片や流行語、SNSでやりとりされる日常の写真や音声なのかもしれない。
いまの僕たちにとっては、あまりにも普通すぎて記録する価値などないように見える。
けれど、普通のものほど残らない。
そして、残らなかったものほど、後の時代からは見えなくなる。
だから、未来に残る何かをつくることと同時に、
いま消えていこうとしているものを拾うこと。
その時代に生きた人々の言葉を拾い集めること。
それもまた、「残るものをつくる」ということなのだと思う。