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エッセイ:人は思い出と共に眠る

エッセイ:いま、ここに並ぶ 石ころと失われた夏の一日

本当は、過去も未来も全部ウソなんじゃないか、と思う時がある。

あるのは、無数のイメージだけだ。


それらは行ったり来たりしながら交差し、光速――三十万キロメートル毎秒という速度のなかで絶えず交換され続けている。


僕たちは、それを「時間」と呼んでいるだけなのかもしれない。


大きな時間の尺度から見れば、一瞬は一瞬でしかない。

それなのに、ある瞬間だけが永遠のように感じられることがある。


忘れられない夏の一日。

もう会えなくなった人の横顔。

一緒にいた時に交わした言葉。


それらは時計の時間とは別の場所で、今も存在し続けているようにも思える。


もし、人類全体をドライブレコーダーのような視点から眺められる装置があったとしたら、きっと不思議な映像になるだろう。


人は物事へ一直線に進んでいるのではない。

変化し続ける世界の周囲を、辿り着けないまま、何度も回り続けているだけなのかもしれない。


生まれ、出会い、別れ、忘れ、また思い出す。

その繰り返しのなかで、物質は重力に従い、ゆっくりと老朽化していく。


変化はする。しかしそれは、時間が流れたからではなく、宇宙に存在する法則の結果として現れているだけなのではないか。


もし因果だけを見つめるなら、過去も未来も存在しない。

あるのは、「いま、ここ」で起きている現象だけだ。


だからこそ、今抱いた一つのイメージは、過去の意味さえ書き換える。

失敗だと思った出来事が、長い人生のなかで何年も経って転機となることさえある。


過去は固定された映像ではない。

現在という観測点から、何度でも再編集されうる。


同じように、未来も決して「やって来る」ものではない。


未来は、誰かが作るものだ。


まだ存在しない景色を想像し、それを形にしようとする人がいるから、新しい未来が生まれる。


十九世紀、人類は鉄道のために標準時を発明した。便利さのために作られたそのからくりを、僕たちはいつしか時間そのものだと思い込んでいる。


そして、失われた夏の一日も、道端に転がる石ころも、本当は同じ宇宙のなかに並んでいる。



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