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夏至

エッセイ:人は思い出と共に眠る

チームや家族が一つの時代を共有するのは何故だろう?


家族は同じ目的のために集まるわけではない。

チームもまた、血のつながりによって結ばれるものではない。

同じ季節を過ごし、同じ出来事に笑い、時には同じ喪失を経験する。

その積み重ねによって、「私の過ごした時間」は「私たちの過ごした時間」へと変わっていく。


その証拠として、私たちは写真を撮り、記録を残す。

卒業式の一枚、ライブ終演後の集合写真、食卓を囲む笑顔。

写真は、その瞬間が確かに存在していたことを教えてくれる。

けれど、写真に映った出来事は、いつまでも曖昧なままだ。


シャッターが切られる数秒前に誰かが泣いていたかもしれないし、

写真には写らない冗談が、その日の空気を決めていたかもしれない。

隣に立つ人との距離は、レンズには映っても、その心の距離までは記録されない。


写真は時間を止めることはできても、時間そのものを保存しておくことは出来ない。

だから私たちは写真を見るたびに、記録を読むのではなく、思い出を呼び起こしているのだ。


思い出は写真の中にはなく、私たちそれぞれの内側にある。

同じ写真を見ても、人によって思い出す風景が違うのはそのためだ。

一枚の写真は、一つの出来事ではなく、一つの入り口でしかない。


やがてチームは解散し、家族の形も変わる。そして、時代も静かに終わっていく。


それでも、一緒に過ごした時間は消えない。

眠るたびに、過去は夢のように姿を変え、記憶は少しずつ薄れていく。

初めて抱きしめられた夜も、最後に眠る時も、人はただ思い出と共に眠るのかもしれない。


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